但馬の霊峰、鉢伏山。出口なお様は、「但馬にはどえらい神様が鎮まっておられるから早く開かねばならぬ」と仰せられたという。出口王仁三郎様は「鉢伏山は竜宮の大黒柱の立っていた処」で、ここが「陸(あげ)の龍宮奥の宮の霊地。龍宮の乙姫様の御神体である」という。鉢伏山に登りはじめた時は、急な山道でとてもしんどく感じていたが、頂上に近い「龍宮の乙姫」といわれる「陸(あげ)の龍宮の奥の宮」に参らせていただき、清らかな大気を全身に吸い込みながら、まさに神々のおわしますところと感じた。すると、不思議なことに、身体が急に軽くなり、急な山道を走りだせるほど元気がでてきたのだった。さらに慈雨。龍宮の乙姫様のゆかりの霊地ではきよめの雨が降るといわれているが、まさにそのとおりとなった。丹後の海に冠島と沓島がある。これが「海(うみ)の龍宮」。「陸(あげ)の龍宮」が綾部。この鉢伏山にあるのが「陸(あげ)の龍宮の奥の宮」。これが竜宮の乙姫様であり、龍の頭である。麓の龍宮神社が龍の尾であると。令和6年龍の年。何かが始まる予感がする。(所長)
日時/2024年10月20日(日)14時
会場/旧加悦町役場庁舎
演題/
ガラスと鉄の王国 丹後・与謝野町
~倭国の源流はタニハ、ここにある~
内容/日本海沿岸三大巨大古墳はなぜ丹後に築かれたのか/巨大古墳の第1号蛭子山古墳はなぜ与謝野町に/日吉ヶ丘遺跡は丹後初の王墓/加悦とは何か/日本と朝鮮半島/日本を動かした大伴氏、物部氏、蘇我氏、藤原氏の足跡が与謝野町に/麻呂子親王鬼退治と鞭家の伝承/遺跡、伝承が語る与謝野町の魅力等々
お申し込み先/与謝野町観光協会
電話/0772-43-0155
今年も北海道、青森から九州まで全国からみやづ歴史の館にご参集いただきました。佐々木泰造様、野村しづかず様、冨貴高司様、そして、私、伴が講演。
私は俵野廃寺の謎に迫り、「丹」について言及。タニハ、丹後の重要性について語りました。
ありがとうございました。
丹後最古 飛鳥時代創建の俵野廃寺跡の碑が俵野区ふれあい広場(フルーツラインのそば)に完成し、8月4日、無事、除幕式を終えました。
京丹後市中山市長様をはじめ俵野区の皆さんやご参会いただきました皆様、暑いなか、本当にありがとうございました。
俵野に残る丹池(勝田池)の大蛇伝承はなぜあるのか、丹池と網野の郷にある丹生池、久美浜町海士の元赤池は、水底がつながっているという不思議な伝承は何故あるのか。
こうした疑問に答えてくれるのは、「丹」であろう。
丹後最古の寺があった俵野。是非、お立ちよりください。
日時:令和6年8月4日(日)12時
場所:京丹後市網野町俵野 俵野区ふれあい広場
丹後最古 飛鳥時代創建の俵野廃寺の碑が完成しました。
8月4日(日)12時から、除幕式を行います。
俵野区の皆様、古代丹波歴史研究所の方々、広く応援下さった皆様のおかげです。
ありがとうございました。
よろしければ、「俵野区ふれあい広場」にお越しください。
また、丹後に来られたら、ぜひお立ち寄りください。
会期:2024年6月12日(水)〜9月2日(月)
細川護熙氏の美の究極、平和への祈り、そして初公開の墨書を展示いたします。
細川幽斎、忠興は丹後の城主、その妻玉ことガラシャ夫人は、京丹後市の味土野に隠 棲された伝承もあり、細川家は丹後に深いゆかりがあります。
今回、元内閣総理大臣である細川家当主細川護熙氏の作品を展示します。
風格の水墨画、漆絵、平和への祈りを込めた油絵「百鬼蛮行ー私 のゲルニカー」、今回、書き下ろし初公開の墨書には、静謐な細川氏の思いが込められたものです。
また陶芸作品など多岐にわたる細川氏の芸術活動、「美の世界」をご鑑賞ください。
同時展示の安野光雅の「阿修羅像」や心を癒してくれる水彩画などゆっくりお愉しみください。
古代丹波歴史研究所10周年記念誌「天のかけはし -倭国の源流タニハ-」発刊しました!
発 行 古代丹波歴史研究所 所長 伴 とし子
定 価 1650円(税込)
京丹後市のまるぜん書店野田川店、マイン店で販売中です。
~はたして、武力だけで国は治まるであろうか。否、心を統治しなければ国は治まらない。
ここに、丹後の祖神豊受大神の偉大さがある。~
★倭国の源流はタニハ(丹後、但馬、丹波)。
★その中心勢力があった古代丹後。
伝説、文献、遺跡、国宝海部氏系図を読み解き、大丹波王国論をかかげる。
★従来の古代史の常識にとらわれず、幅広いさまざまな視点から鋭く深く探求した26名の論考。
言語学者石田天祐氏は「日本と日本語の起源について」、札幌学院大学元学長奥谷浩一氏は「古代ユーラシア文化と朝鮮・日本」。
ほか工藤洋一氏、熊谷久美子氏、小鯛史朗氏、小塚敏郎氏、西賀真紀氏、佐藤和代氏、佐藤洋太氏、志本哲氏、関戸容夫氏、髙橋千春氏、髙橋司氏、高見友幸氏、天野眞名井氏、中島紀氏、野村しづかず氏、羽渕徹氏、濵中雄一氏、伴とし子、平田修吾氏、廣田祐次氏、冨貴高司氏、水野健一氏、宮﨑直之氏、山口眞司氏。
★系図分析、遺跡、ⅮNA、文献、伝承、考古学等から論じる。
★古代史解明の鍵握るタニハ、倭国の源流はタニハである。
丹後最古といわれる七世紀後半に創建された「俵野廃寺跡」は、京丹後市網野町俵野にあります。礎石調査の専門家岩井隆二氏により、白鳳~奈良時代初期(六五〇~七二〇年頃)とされます。『俵野の歴史』(俵野区発行)によると、大正2年に、俵野の耕地整理組合の事業として、俵野川の改修工事がおこなわれ、通称「塔ノ坪」といわれるところから丸木柱の根部5本、柱の心礎となった大石、軒丸瓦、軒平瓦、鬼瓦、須恵器など多数出てきました。鬼瓦には人面のようなものがみえ、軒丸瓦(1式)は、複弁八葉蓮華文、縁に三本一組の鋸歯文が入るもの。また、軒丸瓦(2式)は、七葉の花弁の文様で近畿北部にも同系列のものはなく珍しいものといわれます。大石は、直径約180㎝、厚さ58㎝。ほぼ円形の自然石の上面が平らに削られ、中央に径15~16㎝、深さ16㎝の円筒状の穴があけてあったとのこと。俵野廃寺は古代丹後の繁栄を伝えてくれる重要なものです。
隣接する京丹後市久美浜町には、六世紀後半の湯舟坂2号墳があり、ここから金銅装双龍環頭大刀が出土。同時に須恵器の皿や壷など仏教文化を伝える遺物が大量に出土しました。仏教文化が早くに流入したことを告げる遺跡であり、俵野村に大寺が築かれたのもうなづけます。
また、近隣には、縄文時代の浜詰遺跡、松ヶ崎遺跡、新の王莽の時代の「貨泉」が出土した箱石浜遺跡があります。また、不老長寿の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)(橘)を持ち帰った田道間守の伝承が残り、木津の函石浜の清水岩のところは、田道間守が帰ってきた浜。木津の下和田の売布神社は、田道間守が無事の帰還を感謝し祭壇を設けたところ。浜詰の志布比神社は天日槍の伝承が残ります。
このたび、その遺跡地である京丹後市網野町俵野区に俵野区の方の協力を得て、説明看板を立てることができましたので、ぜひ見に来てください。そして、次は「碑」の建立にむけて進んでいます。丹後最古の寺があったところです。よろしくお願いいたします。