但馬の霊峰、鉢伏山。出口なお様は、「但馬にはどえらい神様が鎮まっておられるから早く開かねばならぬ」と仰せられたという。出口王仁三郎様は「鉢伏山は竜宮の大黒柱の立っていた処」で、ここが「陸(あげ)の龍宮奥の宮の霊地。龍宮の乙姫様の御神体である」という。鉢伏山に登りはじめた時は、急な山道でとてもしんどく感じていたが、頂上に近い「龍宮の乙姫」といわれる「陸(あげ)の龍宮の奥の宮」に参らせていただき、清らかな大気を全身に吸い込みながら、まさに神々のおわしますところと感じた。すると、不思議なことに、身体が急に軽くなり、急な山道を走りだせるほど元気がでてきたのだった。さらに慈雨。龍宮の乙姫様のゆかりの霊地ではきよめの雨が降るといわれているが、まさにそのとおりとなった。丹後の海に冠島と沓島がある。これが「海(うみ)の龍宮」。「陸(あげ)の龍宮」が綾部。この鉢伏山にあるのが「陸(あげ)の龍宮の奥の宮」。これが竜宮の乙姫様であり、龍の頭である。麓の龍宮神社が龍の尾であると。令和6年龍の年。何かが始まる予感がする。(所長)
丹後最古といわれる七世紀後半に創建された「俵野廃寺跡」は、京丹後市網野町俵野にあります。礎石調査の専門家岩井隆二氏により、白鳳~奈良時代初期(六五〇~七二〇年頃)とされます。『俵野の歴史』(俵野区発行)によると、大正2年に、俵野の耕地整理組合の事業として、俵野川の改修工事がおこなわれ、通称「塔ノ坪」といわれるところから丸木柱の根部5本、柱の心礎となった大石、軒丸瓦、軒平瓦、鬼瓦、須恵器など多数出てきました。鬼瓦には人面のようなものがみえ、軒丸瓦(1式)は、複弁八葉蓮華文、縁に三本一組の鋸歯文が入るもの。また、軒丸瓦(2式)は、七葉の花弁の文様で近畿北部にも同系列のものはなく珍しいものといわれます。大石は、直径約180㎝、厚さ58㎝。ほぼ円形の自然石の上面が平らに削られ、中央に径15~16㎝、深さ16㎝の円筒状の穴があけてあったとのこと。俵野廃寺は古代丹後の繁栄を伝えてくれる重要なものです。
隣接する京丹後市久美浜町には、六世紀後半の湯舟坂2号墳があり、ここから金銅装双龍環頭大刀が出土。同時に須恵器の皿や壷など仏教文化を伝える遺物が大量に出土しました。仏教文化が早くに流入したことを告げる遺跡であり、俵野村に大寺が築かれたのもうなづけます。
また、近隣には、縄文時代の浜詰遺跡、松ヶ崎遺跡、新の王莽の時代の「貨泉」が出土した箱石浜遺跡があります。また、不老長寿の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)(橘)を持ち帰った田道間守の伝承が残り、木津の函石浜の清水岩のところは、田道間守が帰ってきた浜。木津の下和田の売布神社は、田道間守が無事の帰還を感謝し祭壇を設けたところ。浜詰の志布比神社は天日槍の伝承が残ります。
このたび、その遺跡地である京丹後市網野町俵野区に俵野区の方の協力を得て、説明看板を立てることができましたので、ぜひ見に来てください。そして、次は「碑」の建立にむけて進んでいます。丹後最古の寺があったところです。よろしくお願いいたします。
12月3日、但馬文教府において、「但馬に歴史を解く鍵」と題し、講演させていただきました。
但馬はいつから。但馬に残されたあわびの伝説や有馬皇子の生存伝承などは興味深い。
アメノヒボコ一族は、渡来人という言葉では言い尽くせない。
倭国から行き、交流し、交易し、住み、定住、往来し、渡りあう人々の観点が必要とお話させていただきました。
但馬がこれからさらに輝きますように。
主催いただいた但馬ヒストリアの西賀さん、ありがとうございました。
佐藤洋太さんは講演「天日槍命と二つの王家」。そして新著発刊、おめでとうございます。
講演後は、五荘小学校の金管バンドの皆さまの演奏をとても楽しませていただきました。
ご来場いただいた皆様ありがとうございました。
「与謝の魅力を語る」と題して、11月19日、旧加悦町役場でちりめん街道を守る会の主催、与謝野町観光協会協力で講演会をさせていただきました。
丹後といえば丹後ちりめん、そのもとをさぐれば、弥生後期、絹の文化をすでに持っていた丹後。阿知使主のこと、絹織物に関する神社、神々、豊かな伝説。そして、丹後初の王墓とされる日吉ヶ丘遺跡、ガラスと鉄の王国を象徴する大風呂墳墓の存在。
与謝とはどういう意味か。入鹿伏に秘められた豪族たちの盛衰。そして、丹後を心の故郷とした与謝蕪村。また、情熱歌人与謝野子と鉄幹。さらに「大丹波王国論」まで。
私自身もワクワクしながらもりだくさんのお話をさせていただきました。多くの皆様にご参加いただきありがとうございました。