Blog 2015
ブログ
伴 とし子
古代丹波歴史研究所
所長 伴 とし子
京都地名フォーラムで「額田王と蒲生野について」研究発表行う
平成27年7月26日
滋賀県東近江市の万葉の森にある蒲生野の碑
滋賀県東近江市の万葉の森にある蒲生野の碑


平成27年7月26日(土)に、京都地名フォーラムが龍谷大学(京都)において実施され、「額田王と蒲生野について」研究発表をさせていただきました。

(「額田王と蒲生野について」要点のみ掲載させていただきます)

額田王は、万葉歌人として、第一等に注目される女性である。また、『万葉集』のなかでも、注目されるのが額田王の巻一、二〇の「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」という歌である。

1 歴史書は額田王をどう書いたか

額田王については、『日本書紀』は、次のように書いている。

『日本書紀』巻二十九には、「天皇初娶鏡王女額田姫王 生十市皇女」(天皇 初め、鏡王の女 額田姫王を娶して、十市王女を生しませり)とたった一行あるだけである。

この一行からわかることは次のとおりである。

①出自は、鏡王の娘であること。

②身分は姫王であること。すなわち王族である。「姫王」というのは、天皇の娘である皇女に対し、二世から五世の女王を示す称、とあるように、内親王でないが、王族である。

③天武との間に十市皇女という娘がいる。(十市皇女は後に大友皇子の妻となる)

④天皇の妃等になったものは、その位が書かれているが、額田王については書かれていない。

このように、額田王は、王族であり、大海人皇子が初めに娶られた女性であ ることは書いてあるが、「妃」なのか「夫人」なのか「嬪」なのか、妻としての地位が書いてないという状態である。また、天智天皇との関係を『日本書紀』から探しても、額田王は天智天皇の妃として記録されていない。

吉田金彦氏は「額田王の宮廷における位置は、折口信夫は巫女、谷馨は祭祀に奉仕した采女的存在だといっているが、宮廷の代表歌人とも新教養派の抒情歌人であるともいわれる額田王が、ほとんど公的立場ばかりで寿歌的な作風をしている。それは決まって古代的巫女であった彼女が、その役職“官女シャーマン”としても呪術性を発揮したからである」というように、極めて知的であり神秘的な能力を持ち合わせた女性だったと考えられる。

2 蒲生野で歌った時の額田王の年齢

また、額田王の年齢は不詳であるが、額田王の蒲生野遊猟のときの年齢は、孫葛野王の「葛野王伝」(『懐風藻』)と、古代女性の第一児出生推定年齢により、額田王三八才の時と推定する。

3 額田王の出自

額田王の出自については、さまざまな説がある。

1説 大和説
大和郡山市額田部 大和の額田部の一族の氏寺に「額安寺」という寺がある。

2説 近江説(本居宣長説)
本居宣長は、『玉勝間』で、「鏡王の女にて、鏡女王は姉、額田王は弟と聞こえたり、父王は近江国の野洲の鏡の里に住居れしによりて、鏡王といへりと見ゆ。」 として、近江説を唱えている。

3説 丹波→近江説(折口信夫説)
また、その考えを引き継いで、折口信夫は、近江の鏡山の神に仕える「鏡王」を推定して、「この鏡王家は、丹波の豪族である丹波道主の王家から分かれ、代々「王」と称していたとし、額田王は、鏡王の家から宮廷へ巫女としてささげられた女性であって、鏡王家は、鏡山の神につかえ、同じく、琵琶湖の水を取り扱う家であった」としている。
 現在、滋賀県竜王町鏡に天日槍を祀る鏡神社があり、そこの宮司は代々鏡王と呼ばれ、額田王はここで育てられたと地元伝承にあり、また鏡王は壬申の乱のおりに戦死し、その地の真照寺に葬られているとも、地元伝承にある。
 また、猪名氏の系譜からは、宣化天皇の曾孫が鏡王で、その娘が額田王とある。宣化天皇の父は継体天皇で母は目子郎女であり、海人族である。
 また、大海人皇子は凡海氏に育てられ、『海部氏勘注系図』(籠神社所蔵)から凡海連は海部氏の分流であることがわかる。こうしたことから、額田王と大海人皇子は同族的つながりがあると考える。

4 蒲生野の歌 儀礼歌から相聞歌へ

「あかねさす 紫野ゆきしめのゆき 野守はみずや 君が袖ふる」額田王。
(あかね色を帯びるあの紫の草の野を行き、その御料地の野を行きながら、野 の番人は見ていないでしょうか、あなたは袖をお振りになることよ)

この「あかねさす」の歌は大海人皇子の歌とあわせて一般的には相聞歌のごとき印象があるが、『万葉集』では雑歌に分類されている。これはなぜだろうか。これについて、次のように考える。

蒲生野の歌 「あかねさす」は、儀礼歌

「あかねさす」は「日」「照る」「むらさき」「君」などにかかる枕詞。あかね=日=太陽、光りがさして最高に輝いた状態。

「紫」は、一番高貴な色。紫は、外来の染色法によって得られた珍しい色である。特別高貴なる紫、それに、太陽があたり、今最高に輝ける状態を表す。

「標野」とは、皇室の所有する原野で、他人の立ち入りを禁じたところ。御料地には、紫草がさいている。天皇の御料地をいう。

額田王の歌は、独立して歌われたものであり、儀礼歌・天皇を称える歌ではないかと考える。

「あかね色の光のさすその神聖なるご料地をいきます。野の番人は、みているでしょうか。あなたが、袖をお振りになって、この地の生命力をこの国の力を高めようとされているのを」

「野守」は「野の番人」であり、「遊猟をする人々」であり、またすべてを見ている「神の存在」でもある。

このように、儀礼歌と考える理由は、

①雑歌に分類されている。

②額田王の歌の題詞は、「作れる歌」となっていて、「送る歌」とはなっていない。

③額田王は、「御言持ち」である。
「御言持ち」とは、天皇の心に成り替わり言葉を発するとか、呪術的要素、宗教的な性格を含み持たせているものと考えられる。国家的な重要な時に天皇の御言持ちとして、才能を発揮したのではないか。
彼女のうたった歌は、儀礼歌が多い。

④「袖」とは魂が宿るものといわれ、「袖振る」とは、愛情をおくるという意味があるが、ほかにも、「振る」というのは、タマフリという言葉があり、振ることによって、招魂や万物を活性化させる意味がある。

したがって、此の歌は、単独で見た場合は儀礼歌だとするのが、私の考えである。


蒲生野で額田王が歌ったのは六六八年である。また、『万葉集』は一度にはできてないが少なくとも額田王の蒲生野の歌がおさめられた一巻は、宝亀年間(七七〇年~七八〇年)であろうという説に従うと、ここに、ざっと一〇〇年の開きがある。

「あかねさす」の歌は、御言持ちであった額田王が、天皇を称え儀礼歌として独立して歌ったものと考える。しかし、一〇〇年後『万葉集』が形成されるなかで、大海人皇子の歌と対にして雑歌に分類するも、相聞歌のごとき美しい歌として定着したものと考える。

蒲生野の遊猟は、大津宮遷都の翌年で、天智が即位した一月三日、続く五月五日の宮廷行事であることから考え、蒲生野で歌うことは、私的な恋愛感情というよりは、天皇を称えたり、その土地の生命力を高めたりする、神への祈りであると私は考える。


丹後にて、日本のふるさと丹後王国について講演させていただきました
平成27年6月20日
黄金に輝く環頭大刀が出土した湯舟坂古墳(久美浜町須田
黄金に輝く環頭大刀が出土した湯舟坂古墳(久美浜町須田)

平成27年6月20日(土)に、京丹後市久美浜町において、「日本のふるさと丹後王国と久美浜」と題し、講演をさせていただきました。

丹後の国は、713年(和銅6年)に大きな丹波国が割かれて、丹後国となりましたが、それ以前は、今の丹後、丹波、但馬を含む丹波国という大国でした。古代における丹後国が際だった王国であったことを丹後王国=大丹波王国という言葉で表現しています。

今回は、この丹後王国がなぜ「日本のふるさと」といえるのか、ということに力点を置き、お話させていただきました。

ホアカリが降臨した天孫降臨の地であること、また、ヤマト政権の基礎を海人族が創ったということ、さらに、垂仁天皇の皇后となったひばす姫は、川上麻須郎女と丹波道主王の娘で、のちの景行天皇を生んだという天皇の母君となること等々さまざまな観点からお話いたしました。

さらに、丹後海人族の優秀性や墓所の記述に注目しながら、古代丹後の奥深い歴史について語りました。



TOPへ