Blog 2016
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伴 とし子
古代丹波歴史研究所
所長 伴 とし子
28年師走、感謝を込めて
平成28年12月26日

あっという間に12月も末となりました。

研究所も、北海道から沖縄の方まで広く参加いただいてうれしい年でした。

当研究所第2回の研究会は、10月に実施。村井康彦先生や吉野健一学芸員を迎え実施することができ、100名ほどの皆さまが参加くださいました。研究会終了後は、茶話会を行い、それぞれの思いを和気あいあいと語りあうことができ、また2日目は、真名井神社、麓神社を歴史散策いたしました。関東方面から沖縄方面まで広くご参加いただきました。

また、私自身は、京都や滋賀、福井、地元などで数々講演をさせていただきましたが、特に、東京の会員様が中心となって企画いただきました11月実施の東京講演「海部氏系図に秘められた卑弥呼」につきましては、文京シビック小ホールで行いましたが、ご参加いただきました皆さまと一体感を感じる時間を過ごすことができました。こうした講演会は、それに到るまでの準備が大変ですし、新聞社、雑誌社様などのご協力により告知したり、当日も、会場の設営から照明、音響、受付、進行などスピーディに効果的に進めていただきました。お蔭さまで、無事盛会のうちに終えることができましたのも、たくさんの応援くださった皆さまの暖かいお心のおかげと感謝でいっぱいです。一人ではできないことも、多くの人々の力により、さらに大きな波動となって成就に向かうということを体感致しました。心から感謝を申し上げます。

なお、新刊「卑弥呼の真実に迫る」を明窓出版様より発刊させていただきました。ほかにも、さまざまなご縁をいただくことができました。

日本海沿岸の古代文化に光があたり、古代史への関心が高まり、地域活性化に結び付くとしたら、こんなにうれしいことはありません。

美しい海、緑の樹々、さわやかな風が織りなす風景のなかで、古代の人々はなにを思い、そして今を生きる私たちは何をメッセージとして受け止めるべきなのか、そして何をなすべきなのかと思いながら、これからも、自然から人からあたたかい波動をいただき、それを元気に変えて、やっていきたいと思います。

今後とも、よろしくお願いいたします。


東京講演、多くのご参加ありがとうございました。
平成28年11月28日
伴とし子東京講演

平成28年11月28日(月)午後1時30分開場。午後2時から4時まで、東京、文京シビック小ホールにて、「海部氏系図に秘められた卑弥呼」と題し、講演会を開催いたしました。

総数220名の方においでいただき、盛況のうちに終えることができました。関東方面の方、また、大阪、京都、愛知方面、丹後方面からもきていただき、本当にありがとうございました。

古代の表玄関である日本海沿岸に残る伝説や遺跡や神社伝承から、ここに古代優秀な海人族がいたこと、その氏族が大和朝廷の基礎を創ったのではないかということ、また、「魏志倭人伝」のあらわす卑弥呼の果たした役割、そこから学ぶ生き方とは、などなど楽しくお話しをさせていただきました。

「古代史の謎は海路で解ける」を著された長野正孝先生にもご挨拶いただきました。

ご参加いただいた皆様、そして、この講演の準備くださった東京の会員の皆さま、お手伝いいただいた多くの皆さま、また、新聞、出版社、歴史関係の皆さまに心より感謝申し上げます。ありがとうございました。


『別冊宝島』(宝島社)(平成28年11月15日発売)
「古代史15の新説」に執筆!
平成28年11月15日

『別冊宝島』今日、「別冊宝島」が届いた。「古代史15の新説」。~新視点で読み解く古代日本の論点~というサブタイトルである。

15人の著者による最新研究の成果に迫る、ということで、私 伴とし子も執筆させていただいた。

とにかく、手に取ってみていただけるとありがたい。

安本美典氏、長野正孝氏、関裕二氏、長浜浩明氏、原田実氏などなどの説が並ぶ。インタビュー記事は、井沢元彦氏「古代史研究におけるアカデミズムの歪み」である。

古代史ファン必見としてご紹介させていただきたい。



「敦賀王国の再現を夢見て」 敦賀シンポジウムに参加!
平成28年10月23日

「敦賀王国の再現を夢見て」と題し、敦賀で行われたシンポジウムは、平成28年10月23日午後から行われた。基調講演が長野正孝先生であった。

長野先生は、元国土交通省 港湾技術研究所部長で、工学博士。著書には、『古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP新書)『古代史の謎は「鉄」で解ける』(PHP新書)など出版されている。船や海路の専門家で、古代史を海から、船から見つめ、鋭い感覚で古代史を再現されておられ、敦賀の重要性をご講演された。

その後、パネルディスカッションにはいり、私も、パネラーの一人として参加させていただいた。

私が敦賀に関心を深く持つのは、やはり、応神天皇の名前変え事件である。 日本海沿岸の各地には、まだまだ古代史の謎を解く鍵が眠っている 。

敦賀の活性化をめざす地元の方々の熱意を感じるシンポジウムだった。


第2回研究会!皆様ありがとうございました
平成28年10月22日・23日
古代丹波歴史研究所 第2回研究会

去る28年10月22日(土)と23日(日)において、古代丹波歴史研究所の第2回研究会を府中の郷公民館で開催致しました。全国から約90名来ていただきました。参加者は、地元京都府内の宮津市、京丹後市、与謝野町、舞鶴市、京都市等の方々、沖縄、九州、東京、神奈川、奈良、大阪、京都、鳥取、愛知、兵庫、滋賀等、遠路の方は泊りがけでご参加いただいた方も多く、深く感謝を申し上げます。

第1番目の講演は、村井康彦先生による「魏志倭人伝を読み直す」。邪馬台国論をわかりやすく語っていただきました。

第2番目に、伴とし子が「浦嶋子はなぜ常世にいったのか」と題し、浦嶋子が常世にいった雄略天皇22年になにがあったのかについて語り、龍宮と王国論について語りました。

そして、第3番目に「雪舟の見た天橋立と府中」と題し、京都府立丹後郷土資料館の吉野健一氏に、興味深い講演をしていただきました。

閉会の辞を羽渕運営委員長が述べ、たくさんの皆様に熱心に聴講いただきました御礼と今後のご支援をお願い致しました。

研究会終了後は、お時間の許す方で茶話会をもたせていただきました。全員の自己紹介とそれぞれの関心のある歴史テーマなど和気あいあいと語り過ごしました。またこうしたなかで相互のつながりを深めていけたらと思っております。

翌日、23日(日)は、希望者20数名によるウォークを実施しました。眞名井神社、麓神社など参拝しながら、神社の由緒や二皇子伝承などにふれながら、午前中の日程を終えました。

参加者の皆さま、お疲れさまでした。

今後もよりよい研究会を行って参りたいと考えております。ありがとうございました。


日本ペンクラブ京都総会 「書くために生きた」寂聴さんの講演
平成28年10月1日
日本ペンクラブ京都総会 「書くために生きた」寂聴さんの講演

平成28年10月1日、日本ペンクラブの総会が京都で開催された。第1部が平安女学院・Mホール、第2部が有栖館(有栖川宮旧邸)であった。今年は、瀬戸内寂聴さんの講演会があった。御年94才といわれるが、声には張りがあり、とてもそのお年には見えない

私は、文学が好きで、太宰治には心酔し、太宰治の研究者になりたいほど、作品はもとより、評論まですごい勢いで読んだ学生時代の記憶がある。同じように、高校のころから瀬戸内さんの作品は、とても読みやすかったし、また、はまりだすとみな読みたくなり、たくさん読んだ記憶がある。この話は、本当に現実なのか、虚構なのかと思いながら、小説家というものは、これだけ血を吐きながら満身創痍で書くものなのだと知り、文字を綴る厳しさの前に、静かに生きたいと思ったものだった。

今回、寂聴さんは、「書くために生きた」、と題して講演された。あくまでも「書きたい」、が主である。

『花芯』で受賞されたら、バッシングがきつく、そうとう世間からは悪口いわれたという。思い余って、某雑誌社の編集長のところにいき、状況をいいにいくと、それくらいのことで文句をいっているなら小説家なんかやめろというように罵倒されたという。寂聴さんは腹が立って、今度、直木賞をやるといっても絶対断ってやる、と決意していたが、そんな話は、ありませんでした、などとお話になられ、ここで、聴衆者大笑い。とにかく、お話の内容も濃くて、話術は天下一品である。晩年に入ってからたくさんの賞を受賞された。このなかで、小説家になりたいと思う人がいたら、小説家は儲かりませんから、なるのはやめなさい、といったりして、寂聴ワールド全開だった。

大病をされたとき、もう死ぬのかなと思ったが、書きたいものがある、書きたいから、まだ死なないと思った、という。そして、まだこうして生きている、という言葉が心に残った。

しなければならないことがある、書きたいこと、書かねばならないことがある限り、文学でも歴史でも、筆をもつものには神様が時間という贈り物を下さると思いたい。

全託。神様の御心のままに、筆に託しゆだねて生きる。

力強く生き抜かれ、書き続けられた瀬戸内寂聴様のご講演は心に強く残った。ありがとうございました。


宮津ロータリークラブにてスピーチ
「古代の表玄関は日本海沿岸~邪馬台国はどこ?卑弥呼は?」
平成28年5月17日

平成28年5月17日(火)に、宮津ロータリークラブの皆様に迎えられ、「古代の表玄関は日本海沿岸、海の京都~邪馬台国はどこ?卑弥呼はいずこ?」と題し、邪馬台国論をのべさせていただきました。

日本のふるさとを考えるとき、邪馬台国とはどこであったか、ということを明らかにする必要があります。

「邪馬台国」については、中国の歴史書『三国志』の中の『魏志』倭人伝に書かれています。『魏志』倭人伝は、二三三年から二九七年に生きた晋の陳寿(ちんじゅ)が書いたものです。しかし、これには元になったとされる書物があり、大半を『魏略』によったものであるとされています。この『魏略』を書いたのが、魚拳(ぎょけん)という人物で、生没年不詳であるが、ほぼ、陳寿と同時代に生き、陳寿より数年ないし十数年前に没したということです。

倭国について、次のように書かれています。

「倭人は朝鮮半島の帯方(今の韓国ソウル付近)の東南の大海の中に住み、山島によって、国邑(諸侯の封地)をつくる。旧(もと)百余国。漢の時、朝見(臣下が天子に拝謁)するものがあり、今、使訳(使者と通訳)通ずる所は三十国である」

また、「邪馬台国」とはどんな国であったかについてはこのように書かれています。

① もと男子をもって王として、とどまること七、八十年。倭国乱れる。(注・倭国が乱れたのは、一七八年~一八三年頃)
② 卑弥呼が、共立され、女王となる。
③ 景初二年(二三八年)(景初三年の誤か)六月、倭の女王は、魏に朝貢する。一二月 親魏倭王として金印紫綬、銅鏡、そのほか賜る。
④ 正始元年(二四〇)魏の使者梯儁(ていしゅん)ら、倭国にきて、倭王に拝仮する。
⑤ 正始四年(二四三)倭王、二回目の朝貢。
⑥ 正始六年(二四五)倭の難升米、黄幢(こうどう)を賜う。(黄幢(こうどう)とは、軍の指揮に用いる黄色の旗。軍旗)
⑦ 正始八年(二四七)卑弥呼は、狗奴国の男王と、素より和せず。倭の載斯・烏越等を遣わして、郡に詣り、相攻撃する状を説く。張政等を遣わし、よって、証書、黄幢(こうどう)をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告諭した。
⑧ 卑弥呼、死す。さらに男王を立てたが、国中が服さない。
⑨ 卑弥呼の宗女トヨ年一三なるを立てて、国中ついに、定まる。
⑩ 張政ら、檄をもってトヨを告諭した。
⑪ トヨは、倭の大夫ら二〇人を遣わし、張政らの帰るのを送らせた。魏の都洛陽の中央官庁に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二枚、異文雑錦二十匹を貢した

そして、たどった道のりは、帯方郡、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、そして邪馬台国。

不思議なことは、帯方郡から不弥国までは、距離を里数で示しているのに対し、不弥国から投馬国に到るには「水行20日」とし、投馬国から邪馬台国までは、「水行10日陸行1月」と記している点です。なぜ、日数による表記に変えたのでしょうか。

水行とは、船で移動したことを表しています。魏使は、日本海ルートできたのではないでしょうか。邪馬台国はどこであったでしょうか。ルートや遺跡などを考えると、当時卑弥呼が活躍した弥生後期に際立った王国であっただろう大丹波王国(=丹後王国)の姿が浮上します。最後は、ヤマトに入っていきますが、古代の大丹波王国は女王国である初期の邪馬台国だったのではないか、少なくとも邪馬台国の港であったといえるのではないでしょうか。古代浪漫が広がります。


京都、アスニー山科にて講演「額田王(ぬかたのおうきみ)の謎に迫る」!
平成28年5月11日
伴とし子「万葉の花額田王の謎に迫る」

京都市のアスニー山科にて、平成28年5月11日(水)に、「万葉の花額田王の謎に迫る」と題し講演をいたしました。

額田王が歌った「あかねさす むらさきのいき しめのいき 野守は見ずや 君が袖振る」は、万葉集のなかで、1番愛されている歌です。

講演では、(1)額田王が蒲生野で歌った時と万葉集ができた時代とは。(2)どのような時代を生きたのか。(3)そのとき彼女はいくつだったのか(4)天智天皇と天武天皇はどういう関係だったのか(5)額田王の出自は(6)蒲生野で歌われた歌はどう解釈できるのか。こうしたことをお話しさせていただきました。

天智と天武は、天武が年上で、本当の兄弟ではなかったと考える、蒲生野でうたったときは、額田王は38歳、その時、すでに孫にあたる葛野王は4才になっていたと推定しました。

会場では、300名近くの方のご参加をいただき、会員の皆様もご参加いただきましたこと深く感謝申し上げます。ありがとうございました。


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