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伴 とし子
古代丹波歴史研究所
所長 伴 とし子
丹後最古、俵野廃寺跡の看板立ちました、次は「碑」を。
令和6年4月17日

丹後最古といわれる七世紀後半に創建された「俵野廃寺跡」は、京丹後市網野町俵野にあります。礎石調査の専門家岩井隆二氏により、白鳳~奈良時代初期(六五〇~七二〇年頃)とされます。『俵野の歴史』(俵野区発行)によると、大正2年に、俵野の耕地整理組合の事業として、俵野川の改修工事がおこなわれ、通称「塔ノ坪」といわれるところから丸木柱の根部5本、柱の心礎となった大石、軒丸瓦、軒平瓦、鬼瓦、須恵器など多数出てきました。鬼瓦には人面のようなものがみえ、軒丸瓦(1式)は、複弁八葉蓮華文、縁に三本一組の鋸歯文が入るもの。また、軒丸瓦(2式)は、七葉の花弁の文様で近畿北部にも同系列のものはなく珍しいものといわれます。大石は、直径約180㎝、厚さ58㎝。ほぼ円形の自然石の上面が平らに削られ、中央に径15~16㎝、深さ16㎝の円筒状の穴があけてあったとのこと。俵野廃寺は古代丹後の繁栄を伝えてくれる重要なものです。

隣接する京丹後市久美浜町には、六世紀後半の湯舟坂2号墳があり、ここから金銅装双龍環頭大刀が出土。同時に須恵器の皿や壷など仏教文化を伝える遺物が大量に出土しました。仏教文化が早くに流入したことを告げる遺跡であり、俵野村に大寺が築かれたのもうなづけます。

また、近隣には、縄文時代の浜詰遺跡、松ヶ崎遺跡、新の王莽の時代の「貨泉」が出土した箱石浜遺跡があります。また、不老長寿の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)(橘)を持ち帰った田道間守の伝承が残り、木津の函石浜の清水岩のところは、田道間守が帰ってきた浜。木津の下和田の売布神社は、田道間守が無事の帰還を感謝し祭壇を設けたところ。浜詰の志布比神社は天日槍の伝承が残ります。

このたび、その遺跡地である京丹後市網野町俵野区に俵野区の方の協力を得て、説明看板を立てることができましたので、ぜひ見に来てください。そして、次は「碑」の建立にむけて進んでいます。丹後最古の寺があったところです。よろしくお願いいたします。

丹後最古、俵野廃寺跡の看板立ちました、次は「碑」を

古代タニハに倭国の源流を見る。渡りあう人々の尊い歴史がある。
令和6年1月27日

12月3日、但馬文教府において、「但馬に歴史を解く鍵」と題し、講演させていただきました。

但馬はいつから。但馬に残されたあわびの伝説や有馬皇子の生存伝承などは興味深い。

アメノヒボコ一族は、渡来人という言葉では言い尽くせない。

倭国から行き、交流し、交易し、住み、定住、往来し、渡りあう人々の観点が必要とお話させていただきました。

但馬がこれからさらに輝きますように。

主催いただいた但馬ヒストリアの西賀さん、ありがとうございました。

佐藤洋太さんは講演「天日槍命と二つの王家」。そして新著発刊、おめでとうございます。

講演後は、五荘小学校の金管バンドの皆さまの演奏をとても楽しませていただきました。

ご来場いただいた皆様ありがとうございました。

古代タニハに倭国の源流を見る。渡りあう人々の尊い歴史がある。



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